キャリア開発セミナー09:教養を磨くこと

 日本では、「社会人大学院」という言葉があります。言葉の通り、社会人のための大学院であるわけですが、欧米では「社会人大学院」に該当する言葉は無いそうです。それは、大学院に学ぶ学生は、若い人から老人まで、また社会人経験をしているか否か、そういう区分けをする概念がそもそもないとのことです。

 国別25歳以上の国民の教育機関への入学者の割合ですが、北欧は50%を超えており、米国も30%を超える比率を示している一方、日本は4.6%と極めて低い数値となっています。日本の場合、大学を出たらその後は仕事に専念するのが通常で、理論、哲学、歴史などのアカデミーな知識は、現実のビジネスには役に立たないと解される文化であるゆえかとも思います。でも、この数字が著す意味を、私たちは真剣に再考しなければいけないのだろうと思います。

 数年前のことですが、日本の実業界は大学に対し、企業人として即戦力になる学生を養成してほしいとの要望を出しました。新卒者に対し、一からすべて企業が育てるような時間は無い、というのが理由だったようです。それを受けて大学側は、幅広い教養課程を学ぶ時間を削り、入学当初から専門課程に力を入れるような育成方針の変更を行いました。

 その結果がどうだったでしょうか。評価は色々あるかと思いますが、私が企業の人事部門にいて感じるのは、自分ではなく周囲の人間の存在や感情に鈍感である若者が増加したように思えることです。もちろんすべての若者がこの範疇に入るわけではありませんが、自己愛が強い人間が多くなってきたことは肌感で感じます。

 これに関し、すべての因果を私が仮説で語れるとも思っていません。けれども、教養を軽視すると、人間的な偏りが生じてしまうのではないかと思うのです。教養はリベラルアーツと言われますが、囚われや偏見に満ちた自分の枠をリベレート(=解放)するのが教養です。専門課程をサイエンスでひたすら学ぶことは尊いのですけど、その最終目的は何なのか。目的が専門分野の知識の習得であるなら、専門課程重視の育成を早期からら採りいれれば良いでしょうが、目的とすべきは本当に知識習得なのでしょうか。

 私は、その知識習得は手段であり、最終的には自分や周囲の人びとの幸福を求めることこそ学びの目的なのではないかと思っています。すなわち、私がキャリアの定義で提示させていただいたように、「自分自身に与えられたタレント(能力・個性)を、いかに自分と他者の幸せと成長に活かしていくか」という視点無くしては、専門課程の知識を活かしていくことは本来できないのではないか、と考えています。

 欧米の大学では、殆どの時間はリベラルアーツを学び、さらに専門課程を深めたい人間はその後大学院に進むというのが常道のようです。それだけ社会の中でリーダーとなっていく人には、人間力や広い視野などの期待が大きいということなのでしょう。

 五角形分析でも分かるように、広く浅い、そして異分野の人びとと直接間接に、また書籍や論文などを通じて様々な人の生き方と出会い、自分自身の立ち位置を謙虚に考え直すこと、これこそが教養を磨く、ということなのだろうと思います。

 『働く大人のための学びの教科書(中原淳著)』の中に、「本を読むことは、他者の経験や思考を代理学習することであり、直接経験による学びは「パワフル」ではあるが、時間とお金がかかる」とあります。私は中原先生のこの言葉に非常に共感しています。自分の中に地図を描き、自分なりの世界観、事業観、人間観を持てるよう、代理学習と直接学習をうまく組み合わせて教養を高めたいものです。

 「教養を磨く」の項で、もう一つだけ触れておきたいことがあります。私たちは5感と呼ばれる感覚を持っています。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ですが、人間はその5感の中では視覚が発達しているといわれています。

 私たちの現代社会は、サイエンス(=科学)に基づき、ファクト(=事実)を重視してそのベースの上で妥当と思われる判断をしながら生活しています。ですから、目に見えないものを信じることは、基本的には難しいすね。

 心理学は心の世界を扱っていますが、目に見えない心を捉えるための工夫として、歴史上、「行動主義」という「目に見える人間の言動からその人の心を推定すること」が是とされた時代もあったわけです。

 でも、私たち生きている社会の中で、本当に眼に見えるものだけが尊く確実なもので、逆に目に見えない世界は軟弱で不確実な虚像なのでしょうか。

 私は学生時代バスケットボール部に所属していたのですが、中学時代のバスケットボール部の2学年先輩は、都大会でも上位に出場するような強いチームでした。もちろんその先輩たちは、学校を卒業し社会に出ても仲の良い同期同士だったのですが、あるときその先輩の一人で教師になったOさんが、教え子に刺されて命を落としてしまうという悲しい事件が起こりました。そのO先輩は、レギュラー選手ではなかったものの、ガッツプレイでは絶対に負けない努力と根性の、そして本当に後輩にも優しい先輩でしたので、その訃報は私にも受け止められない悲しみでした。

 その同期生の先輩たちは、披露宴とか何かの集まりがある時には、必ず「Oさんの席」を作り、天国にいるOさんの存在を意識して集いを持っているとのことです。 

 皆さんは、この話をどのように捉えてくださったでしょうか。目にみえるファクトや科学的根拠のあるものが優位で信じるべきもの、そして空席となっている「Oさんの席」は、サイエンスに劣後しているのでしょうか?

 また、もう一つだけ紹介させてください。4人兄弟で生活も貧しい家族の話ですが、私の知り合いはその4人兄弟の一番上の姉だったそうです。クリスマスの時期に、サンタさんからのプレゼントが期待できないと分かっていた彼女は、サンタさんからのプレゼントを心待ちにしている妹や弟を見ていて、自分が何とかできないかを考えます。でも、持っているお小遣いはほんの少ししかなく悩みます。結局彼女は、自分の分を買わずに、妹と弟3人のために、ホンのわずかですけどプレゼントになるものを購入し、寝静まった夜にそっと各々の靴下にそのプレゼントを入れておいたそうです。

 翌朝プレゼントに気付いた妹や弟は、品物の価値ではなく、プレゼントをもらったことに対する喜びを満面に表していたとのこと、でもその笑顔を見て一番の贈り物をもらったのは、姉の自分自身だったと、私の知人は話していました。眼に見えない世界にこそ、大切な真実もあるのだと、その時私は教えてもらったのです。

 学生時代のみならず、社会人になってからも、そして現役を引退して市民としての役割を果たす段になっても、目に見えるものだけに価値を置いて判断するのではなく、目に目ない世界にも思いを馳せる、ということに対し、今一度考えたいと思います。キャリアにおいても、外的キャリアに偏りすぎてしまうことの貧弱さを述べたように、また、心の世界でも玉置僧侶がスピリチュアルな世界無しに人間は健康足りえないと言ってくださったように、他者の思いへの深い理解をしていきたいものです。(続く)

タラントディスカバリーラボ

人それぞれの「心の利き手」に沿ったキャリア支援を目指します

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